夢喰い獏を喰う男

 獏を買った。

 その頃の俺の人生は最悪だった。大学四回生で必修単位の計算を誤り留年が確定、仕送りが打ち切られた。内定は辞退せざるをえなかった。生活費を稼ぐべくアルバイトに邁進している間に、結婚を考えていた彼女を他の男に奪われた。卒業して働き始めた友人達とは疎遠になった。なに、たいしたことない、よくある話さ、頭では理解していたものの、気付いた時にはうまく眠れなくなっていた。時たま浅く眠れることがあっても、悪夢ばかり見てしまう。例えば、こんな夢だ。

 俺は水中にいる。夜の、暗い水の中だ。息が苦しく、水面に向かって泳ごうとするが、何かに上から押し付けられているようで、浮き上がれない。見上げると、大きな人影がいくつも見える。逆光で見えるはずもないのだが、なぜだか俺には彼らが誰だかわかる。厳格な父と優秀な兄、内定先の人事部長と若いOL、去っていった彼女と背の高い男、卒業した友人同士……大きな人影に見えていたのは、彼らが皆、二人一組で肩を寄せ合い、こちらを覗いているからだった。揺れる水面にぐにゃぐにゃ笑って俺を見ている。俺を押さえつけているのは彼らの視線だった。息ができないまま、少しずつ、体が沈んでいく……。

 悪夢は如実に俺の心の弱さを映し出した。半年耐えた末、心療内科に駆け込んだ。呑気な医者だった。それでは睡眠薬を出しましょう、薬を飲めば悪夢を見ないで済むのか、頻度は減ると思いますが保証はできません、それでは意味がない、眠れるようになりますよ、眠れないことより悪夢を見てしまうことの方が問題なんだ。

「それなら」食い下がる俺を見つめ、医者は匙を投げるように言った。

「獏でも飼えば」

 睡眠薬の処方を受けた俺は、その足でペットショップに赴き、獏を買った。随分と大きな獏で、はるばる東南アジアから連れてこられたというのに、ひっそりと売れ残っていた。店員曰く、獏が食べるのは悪夢だけではないらしい。一緒に暮らしていれば、良い夢も悪い夢も全部食べてしまう。おとなしい性格で育てやすいが、結局は気味悪がられて返品される。

 なるほど、飼い始めてみると、たしかに育てにくいということはなかった。なにせ夢しか食べないのだ。トイレと月に一度の風呂以外には然したる世話がない。悪夢の方はといえば、パッタリ止んだ。気味が悪いなんてとんでもない。空白の眠りのなんと心地良いことか。獏を抱擁して俺は叫んだ。

「ようやく助かったんだ!」

 しかし、だ。俺はすぐに悟った。昼間のクソみたいな現実は変わっていない。

 就職先が決まっていなかった。悪夢に悩まされている間に、時間はどんどん過ぎていた。残り僅かな期間でなんとかしなくてはならない。父を頼れば働き口の一つや二つ、口添えしてもらえるかもしれないが、留年して以降、実家からの連絡は一切なかった。元々出来の悪い息子だ、完全に見放されたのだろう。彼女は帰ってこない。友人もいない。悪夢は消えたが、こんなはずではなかったという思いは消えなかった。

 酔いに任せて睡眠薬を三倍量服用した。万能感に満たされ、不安が和らいだ。味をしめた俺は、ネットオークションで怪しげな錠剤を購入した。睡眠薬に勝る多幸感が、尾骨から背筋を伝い、脳髄にせりあがってくる。あと少しというその時、プツンと記憶の糸が切れ、朝になっていた。

 その後何度か試したが、いつも絶頂を迎える直前に記憶が途切れる。俺は理解した。獏のせいだ。こいつ、夢だと思って食っていやがる。

 味わうはずだった夢を取り返すため、俺は獏を食べることにした。風呂場に連れていき、首に包丁を突き立てる。命を奪われる瞬間も獏はおとなしく無抵抗で、鳴き声すらあげなかった。せめて美味しく食べてやろうと、解体した肉を塩麹に漬け、生姜焼きにしてみた。献立の選択、かけた一手間もむなしく、肉は固くて臭かった。

 睡眠薬を飲み、布団に入る。すぐに夢を見た。時間と距離の概念がなくなる夢、掌から虹色の花びらが無限に湧き続ける夢――。抽象的な夢のメドレーの最後に、ジャングルの夢を見た。

 冷たく、湿った土。生ぬるい風。父母を、兄弟を、仲間を探して、四つ足で歩く。地面を眺めると、黒く体毛の薄い前足が見える。どうやらこれは、さっき食べた獏の夢のようだ。夢の中で、俺は獏になっていた。虎の影に怯えながら森を彷徨っていると、人間の“俺”と出会った。俺は“俺”と共に歩き始めた。昼と夜が何度か巡り、小さな泉を見つけた。どこまでも青く透き通っているのに、水底が見えないほど深い、不思議な泉だった。眺めていると、肩に手を置かれた。そのまま俺たちは澄んだ水面を覗いていた。銀色の小魚が静かに泳いでいる。じきに夜になり、水は闇に染まって何も見えなくなった。鏡のような水面が星空を映し、チラチラと揺れ動いている。俺は気付く。あの暗い水面を覗きこむ、二人一組の、肩を寄せ合う、こいつが俺の相手だったのだ。

 目覚めた俺は、少ない貯金をすべて引き出し、東南アジアへ向かった。

twitter上の企画で偶然見つけた匿名の小説コンクールへの飛び入り参加用に書いたもの。お題は「食」だったと思う。

作成
・2019/03/13